魚心あれば水心

しがないドルオタの記録

少年だったきみ

 

あなたのショタコンはどこからきていますか?

 

突然そんなことを聞かれても答えられないという人もいれば、ン年前に推していた子役の◯◯君です!という人もいるだろう。自分の場合は、とても身近な、あの頃少年だった2人の存在が根底に大きくある。

今回はそのうちの一人の話をしよう。

 

 

中学二年生の頃に生徒会役員を決める選挙に立候補する者が、ポストに対して足りないという、教員からしたらとんでもない事件が起きた。毎年立候補者が複数名いるような活発な学校だったが、なぜか私の世代はそういったことに興味のない人が多かった。

私は役員になること自体に興味はなかったが、小学生の頃から『投票をする立場=他人の人生の分岐点になりうるポイントを左右する立場』になることがとても苦手だったため、投票権を放棄できることに惹かれて委員長に立候補していた。

私のクラスの担任は自分のクラスから役員を複数出したかったらしく、何人かに声をかけていた。そんな中「俺、会長は柄じゃないけど副会長なら立候補しようかな」というなんとも頼りないことを私に言ってきた男子生徒がいた。

今回のブログの主人公であるYだ。

 

私はYとは小学校1年生からの付き合いだ。クラス替えで離れたり一緒だったりしているうちに、6歳の頃は私の耳くらいまでしか身長がなかった小柄なYは、14歳になると今度は私が彼の耳くらいまでになるという大成長を遂げていた。

Yは昔からずっとニコニコしていて温厚な人だったから、わざわざ私に「立候補しようかな」なんて言ってみたのも、きっと先に立候補している私が生徒会の活動で一緒になることを嫌がらないか気になって反応を伺ったのだろう。

私は「部活とか参加できる時間減っちゃうかもしれないけど、それでもいいなら楽しいと思うよ」と返事をした記憶がある。Yは部活は別にいいと言っていた。意外だった。その部活は二年生になるタイミングで辞める人の多い部活だったが、Yは続けていたのでてっきり好きなんだと思っていた。

 

生徒会選挙は結局会長だけ何名か立候補したが、他のポストは全て信任投票だった。私もYも生徒会役員になった。

副会長は2人いて、もう一人も小学一年生から知っている女の子だった。彼女は、部活や習い事を理由にあまり生徒会の活動に参加してくれなかった。頼りないと思っていたYの方が真面目に参加してくれていた。

中学三年生の春に、生徒会室では志望校をどうするかが話題になっていた。当時成績表の結果に応じた学力ランクというものがあり、私はEランクの上の方とDランクの下の方を彷徨っていた。私くらいの成績だと少し頑張ってDランクの学校を受けて、落ちたり受かったりというのが一般的だったが、上を目指すことへの自信のなさから、次に成績相当であり近場でもあるFランクの学校の名前を言った。その後もみんなどんどん「やっぱりあなたはその高校だよね」と思うような成績相当の学校名を挙げていった。

Yは成績表は確か私と同じくらいだったが、一年二学期から変動のほとんどない5科目の総合点数順位は、クラスで私より3つくらい下だった。だからYDランクかFランクの学校を志望していると思い込んでいたが、YはなんとBランクの学校を挙げたのだった。

 

それから少しして夏休みになった。Yは部活は引退までしっかり続け、部活とバトンタッチするように今度は予備校に通うようになった。それでも生徒会の登校日は必ず来て一緒に作業をしていた。たまに居眠りしていたけど、誰もY咎めることはなかった。

他の人がいない時にYに「本当にFランクの学校受けるの?なんでそこに行きたいの?」と聞かれた。行きたいわけではない。受験に失敗したくないだけだ。もしも私がもう少し勉強ができていたらDランクの学校を受けるだろうし、反対にできていなかったらもっと下のランクの学校を受けるだけだ。私はどうしても失敗体験を自分の歴史に残したくなかったのだ。

Yはどうしてあの学校に行きたいの?」と聞いたら「私服だし、自転車で行けるし、学食って食べてみたいし、大学の受験対策もあるから」と言った。目標のあるYが羨ましかった。自分の目標を恥ずかしがることなく人に言えるYが羨ましかった。

 

私は志望校を考え直すことにした。仲のいい友達はみんな成績が勿体無いからDランクの学校を受けるべきだと私に言っていたが、Yはそうではなかった。行きたい学校を受けるべきだと言っていた。Yの言葉を受けて、私は自分のしたいことについて考えてみた。

その結果、家から遠いが好きな分野を学べる高校を受けることにした。その学校はCランクだったが、推薦枠があったし、一般受験でも自分の得意科目に傾斜配点があったから目指せなくはない範囲だった。

 

Yは勉強だけではなく、中学での思い出作りにも積極的だった。

クラスにあまり学校に通えなくなってしまった男の子がいたのだが、Yはその子の家が中学校とは反対の位置にあるのに、よく迎えにいっていた。Yがいつ迎えにいっても、その子は家から出ることはなかったし、いつも母親に「ごめんね」と言われるだけだと言っていた。

Yは学校以外でその子とはたまに遊んだことがあり「すごく面白い奴なんだよ」と、その子をあまり知らないクラスメイトにも話していた。周囲はYの熱心な登校の誘いは、逆に迷惑なんじゃないかとYのいないところで話していた。私も最初はそんな気がしていたが、修学旅行には来ていてYと楽しそうに喋るその子を見た時に『Yが毎日迎えに行っていなかったら、きっと今日も来なかったかもしれない。今日ここで彼が笑えているならYの行動には意味があったんだろうな』と感じた。

 

夏休みが明けて、秋が来て、模試の結果にみんな一喜一憂していた。私は担任から出された推薦を受ける条件である5科目の総合点数を20点も上回り、無事に志望校の推薦入試を受ける資格を得ていた。目標があると人間は頑張れるのだと実感した。

Yもどんどん成績を上げたが、模試ではまだ合格が難しいラインだった。しかし、その後もYは成績を上げ続け、誰もが無理だと思っていたBランクの高校に合格した。

 

Yは自分で一度決めたことは曲げない人だった。部活も三年生の引退まで続けたし、生徒会の仕事も絶対に休まなかったし、不登校の子のことはその子の親に「もういいよ」と言われるまで毎日迎えに行ったし、志望校だって変えることはなかった。

Yの真っ直ぐな姿勢はまるで少年漫画の主人公のようだった。

 

 

私の中にある少年が好きという感情には、『あの頃のYのような』少年が好きという意味がある気がする。

私はいつだってYのような少年に惹かれるのだ。

宛名の書けない手紙のような独り言

長すぎる独り言を聞いて欲しい。

私は作間龍斗という美しくて仕事ができて人望が厚いくせに、いたずら好きでどこか遠くを見つめている少年の、体が成長する時期を、心が多感な時期を、目まぐるしく環境が変わる時期を、『ファン』というあまりにも無責任な立場からほんの少しだけ覗き見させてもらっていた。

自分は小さい頃からSMAPを見て育ってきたが、ジャニーズJr.のファンになるのは彼が初めてだった。
私が初めて作間くんを知ったのは何かの雑誌のスキャン画像だった。そこにはあまりにも顔の整った中学二年生の少年がいた。すっきりとした涼しげな目元に、通った鼻筋、文句を言いたそうな生意気な唇、彼の顔のパーツの冷たい印象を柔らかく包むふっくらした輪郭。どれも美しくて、その一つ一つが綺麗に並べられていて、人間の顔にこれほどまで美しいと思ったことはなかった。
この子はどんな子なんだろう?何を考えて生きているんだろう?
私は今でこそ無所時代の作間くんの仕事の姿勢が好きだと言っているが、初めは彼の顔の美しさに興味を持ったのだ。

意気揚々とジャニーズJr.情報局に入り、好きなタレント欄に『作間龍斗』と入力し、出演者名に彼の名前のない公演に応募しては全て落選していた。
彼の活動は知れば知るほど、当時の私にはよくわからないものだった。
誰かの後ろでローラースケートをしていたり、アクロバットをしていたり、キーボードを弾いていた。あんなに美しい彼が、ステージの上にいるアイドルの中では一番影に徹していた。これが無所ジュニアなんだ、と、なんとなくだけど自分に言い聞かせることで胸を落ち着かせることができた。きっとあの頃ジャニーズJr.の世界のピラミッドの中では、彼は半分くらいの位置の替えのきく存在だったのだろう。

毎日Twitterで『作間』と検索しては最新ツイートが1.2時間前、いつも同じアカウントの人しかツイートしてない状況を見ていた。それでも作間くんは無所ジュニアの中では顔が覚えられているほうで、公演が終われば誰かがレポをあげていた。けれどそのツイート主のアイコンは大体他のアイドルの画像で、プロフィールに列挙している好きなアイドルの中に作間くんの名前はないか、あったとしても一番最後に書いてあった。「作間くんが一番好き!」という人は、今とは比べ物にならないくらい少なかった。
中学2年生から中学校を卒業するまでの作間くんは、沢山身長が伸びて、顔立ちも体型もどんどん大人ぽくなっていった。声もずっと低くなった。けれどその成長を感じ取れる機会が、私にはジュニアにQしかなかった。呼ばれたときはすごく嬉しかった。毎週金曜日の放送時間は仕事をしていたけど、こっそり抜けてトイレで携帯を握りTwitterアプリを開いて「ジュニアにQ」と検索しては、その結果で残業の捗り具合が変わった。作間くんがジュニアにQに呼ばれた日は、すぐに仕事を片付けて退勤し、地下鉄の中で誰かがTwitterに載せてくれた動画を見て、帰宅してテレビでも録画を見ていた。ジュニアにQは声が聞けるだけではなく、あの掲示板との差で身長の伸び具合が分かるので、リアルタイムではないけれど、今の作間くんを感じ取るにはこれしかなかった。

作間くんは昔から人望があった。HiHiJetの猪狩くんが怪我で公演に出られない時は代役を務めた。ジャニーズアイランドでプレッシャーから舞台裏で上手と下手が分からなくなった先輩に「こっちですよ」と声をかけていた。無所属の子たちで集まってレッスンをした帰りに、同じくらいの年頃の子と話しながら帰るわけではなく、引率の先生のように小さい子たちと帰っていた。私は仲間から頼りにされている作間くんが大好きだった。作間くんのこういった素敵な面を沢山の人に知って欲しかった。この頃の私はTwitterで「誰かが作間くんのファンになるきっかけになれれば」と思って自分の作間くんに対する解釈や考え、思いをツイートしていた。
けれど、そんな作間くんが大好きな反面、心配に思うことも沢山あった。作間くんは責任感だけで動いているんじゃないかな?本当にやりたくてやっているのかな?と思うことが増えた。
しばらくして、作間くんは中学3年生の終わり頃にHiHiJetへの加入…HiHiJets結成というべきだろうか、彼は元からあったユニットに加入するという形で晴れて無所ジュニアではなくなった。無駄なことをあれこれ考えがちな私だけど、あの時は人生で一番両手放しで喜んでいた気がする。

作間くんは、これから、作間くんのために、生きられるんだ。

誰かの代わりじゃない作間くんが必要とされ、誰かを支えるだけじゃない作間くんが見られる。私はそう感じた。
彼が加入してからのハイハイ公演はクリエもサマステもチケットがご用意された。今まで一度も当たったことがなかったのに、突然チケットが当たりだしたのだから不気味だった。これが該当担優先というものか、と、今まで他人事のように見聞きしていた言葉を思い出した。

ここからはもう感情のままにめちゃくちゃに書いてやろう。
私はあんなに見たくて見たくて仕方なかった作間くんを初めて見た時、大粒の涙に遮られて最初の1曲丸々ほとんど何も見えなかった。眼球が溺れるんじゃないかというほどの涙に視界を遮られた。涙で歪んだ視界の中にいる作間くんは背が高くて厚みがあって人間だった!彼の体を華麗に滑らせるローラーの滑走音が思いのほか煩くて人間の重みを感じた!
あぁ、作間くんは生きている。呼吸のたびに喉が微かに動く。汗が首筋をつたっていく。初めて雑誌で見たときに生意気そうと感じた唇は、私が思っていたよりもずっと口角が上がっていて、かわいらしかった。
しかし、なんだろう。作間くんがいない。作間くんはそこにいるのにいない。遠慮しているんだと感じた。メンバー4人にも、観客にも、作間くんはきっと遠慮していた。
人の携帯電話を勝手に手に取りナンバーロックを適当に入力しまくり、一定時間使用できない制限をかけさせるという迷惑極まりないいたずらをしていた作間くんは、いなかった。バック紹介で一人一人カメラに抜かれたときに、前髪の横でハサミに見立てた手をチョキチョキと動かして『髪切った』と口パクで伝えてくるマイペースな作間くんは、いなかった。
シアタークリエの最前列の下手ブロックで、真正面から初めて見た大好きなアイドルの作間龍斗くんは、色の塗られていない線画のようだった。
あの後も私はHiHiJetsのライブには必ず一回は足を運んだ。けれど、いつまで経っても、作間くんはモノクロに見えた。もしかしたら、遠慮じゃないのかも知れない。「元々そういう人だった」あるいは「成長した」のだろう。私の大好きな作間くんは、ここにいて、ここにいない。
以前もこの言葉を使ったが、私は作間くんに対して過去にこういうことをしていた人だから好き、という、作間くん本体ではなく煮凝りを愛している感覚になっている。けれどその煮凝りは永遠に消えて無くなりなんてしないから、永遠に作間くんが好きなんだろう。

最近の話をしよう。
作間くんは謹慎明けに、活動を再開するというコメントを発表した。
あの言葉にも作間くんがいなかった。作間くんの文章の主人公は作間くんじゃなかった。寂しくて仕方がなかった。クリエで初めて見た作間くんが遠慮がちに感じた時よりも、謹慎が決まった時よりも、なによりも寂しいという感情に支配された。

作間くんは、作間くんのために、生きていますか?

彼が無所ジュニアじゃなくなった時に、私は、やっと作間くんが自分のために生きられると思っていた。
けれど作間くんの責任感やプレッシャーは、活動の幅が広がるにつれてどんどん大きくなり、あの頃よりも自分が主人公じゃいられなくなっている気がした。
作間くんがこれからのアイドル人生の中で作間くん自身を主人公にして生きていって欲しい。
私はまだその時を楽しみに待つことにした。

自分史上最速でジャニーズタレントに落ちた話

自分のことを愚かだなぁと思ったことが私には2回あります。

1回目は高校1年生の夏に受けた商業英語検定です。問題集ではいつも8割以上取れていて合格圏内だったのですが、当日の試験中に涙が出てくるほど親知らずが痛みだして口元を動かさなくなり、顎や歯茎から耳の裏にかけてまで痛くて、全く集中できずにボロボロの結果になったことです。
2回目は2019年6月1日にシアタークリエで織山尚大を一個人として認識して見てしまったことです。
今回のブログでは、その2回目に自覚した愚かな自分に関して書いていきます。



周りの姫たちやSP担がクリエをほぼ全ステしている中、「つまらなさそうな日は行かない。演者のやる気、会場のボルテージ、全てがそろう公演しか行きたくない」という独自の感性でオタ活している私は、初日、木曜、土曜午前、日曜午後に行くことにしていました。

私の愚かな過ちの発端である織山くんはジャニーズ銀座 7MEN侍公演に2日目から出演していました。つまり、私が初めて見たのは木曜日、5月30日です。
この時はソロダンスが印象的すぎて歌声の記憶やパフォーマンス以外の記憶がほとんど無かったです。
織山くんのソロダンスはアニメーションダンスといわれるジャンルです。彼のダンスを見たときに私の大好きな海外の女性ダンサーを思い出しました。彼女は世界的に評価されていますが、見ようによっては不気味で気持ちが悪い世界観を表現しています。
織山くんのダンスにも自分はそれを感じました。加えて、織山くんはシアタークリエのステージを、シアタークリエではない、どこか別の場所に、例えるなら織山くんの脳の中、あるいは織山くんしか見ることのない夢の中、に変えてしまえるのです。
この感覚は林蓮音くんのアクロバットを見たとき以来でした。
適切な表現がうまくできないのですが、このときに私は目の前の織山くんは人間じゃないのだと感じました。ソロダンス中の織山くんは、織山尚大くんの作り上げた最高傑作のお人形なのだと。
見ている人が好きに解釈を当て込める、よくできたお人形だと感じました。織山くんは自分の表現を誰にも押し付けずに、ただ色濃い印象だけを置いていきます。そしてシアタークリエをどこか別の場所に変えてしまいますが、そこから出ていける自由は私たちに与えられているのです。

なんだかその日は怖くて、ソロダンス以外の時間は織山くんを見ないように意識してしまいました。

次に私が公演に入ったのは6月1日ですが、前日の夜からお友達と織山くんの歌声についての話題が出ていたので、この時は「なんか怖いし正直安易に片足突っ込んじゃいけなさそうな人だけど、歌くらいは聞いてみるか…」という感覚で彼の歌声に注目しようと思って行きました。
歌声、とても好きでした。この瞬間に「あ、私ってばかじゃん…なんであの歌の上手い今野くんのファンやってる癖に他の子の歌声に惹かれてんだよ」と感じました。
Bad★Nice自体初めて聞いたのですが、あの日帰宅する電車で歌詞を調べて、織山くんの表情を思い出しながら歌詞を読みました。

え、ていうか、なんで?は?あれ曲名Bad★Niceっていうの?そんなにポップなの?★マークついてるの?だって織山くんは憂いを帯びた切なそうな、胸が苦しくなるような表情をよくしていたじゃん!?え?織山尚大の解釈ってむちゃくちゃに重くね???いや、違うな、Bad★Niceって曲名が違くね???????

この時すでに私の中では織山くんが正解で、あろうことか曲名をつけた人の感性に疑問を持ちました。織山くんの表現するBad★Niceに私がタイトルをつけるとしたら、多分「甘い堕天使」(古のヴィジュアル系バンド感)とかそういう感じにします(鬼のダサさ)。

あとこの日は織山くんがファンサしているところを見たのですが、ありえん可愛かったです…。なぜか一部の人にお辞儀をしていたのも良かったです。いや、ファンが年上でも、男性でも、アイドルの前では全員乙女なんだからお辞儀すな!と思いながらニチャニチャしてお辞儀さばきを見ていました。
ファンサ中の織山くんって中堅グラビアアイドルぽくないですか?撮影会終わりみたいな「今日も来てくれてありがとう〜。可愛く撮ってくれた?」みたいな顔するので。バイト代全注ぎ込み年齢イコール彼女なし歴私立理系大学3年生の人格の私が『あ、あ、あとで、データをツイッターのDMでっ、お、送るね…!』と精一杯の返事をしてしまいます。
この次の日のオーラスも今野担として入りながら、時々織山くんをチラ見するという贅沢の極みみたいな楽しみ方をしてしまいました。


その日からジワジワ織山くんについて調べたり、全く見ていなかったジェミーチャンネルに手をつけたりしていました。

そして、気がつけば7月中にEXシアターへ何度も足を運んでいました。自分は気合が入っている日とか中弛みのなさそうな日しか興味がないタイプだったのですが、尚大くん(7月に入ったあたりからメロオタ人格も存在しだし、この呼称になっている)ならどんな日でも最善を尽くせるだろうし、むしろ調子の悪い日も観なくてはいけない気がして、敢えて調子悪そうな日を引きに行って、見事引き当てるという訳の分からないことまでしていました。
引き当てた調子の悪い日の尚大くんは、それまでしていなかった楽曲でシャツを捲り上げる動きを取り入れたり、いつもよりファンサを多めにしていたりと、調子の悪かった部分を自分で取り返すように色々な工夫を凝らしていて、織山尚大はタダじゃ転ばない男だな…と確信しました。
それと同時に、その調子の良くないであろう日を見たことで、なんだかどんな時でも好きでいられる気がして、安心して彼を好きになっている自分を認めることができました。


いつも自分は気になるアイドルがいても1年近くかけてジワジワ好きになり、ジャブのようにツイッターで小出しにツイートして、世間の反応を伺ってからファンになるという小心者すぎる過程を踏んでいたのですが、尚大くんに関してはかなりいいタイミングで観たいものを観てきた感覚で、すんなりとスピーディにファンである自分を受け入れている状態です。

と、そんなこんなで、今では2019年6月1日にシアタークリエで織山尚大を一個人として認識してしまった、あの愚かな自分を褒めたいくらいに、尚大くんに真っ逆さまです。